「相手の立場に立つのは難しい」

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人間関係におけるうまくいかなさのひとつに、相手の立場に立って考えるということの難しさがあるように思います。
自分では、相手の立場に立って考えたり行動したりしているのに、逆にこじれてしまったという経験のある方も多いのではないでしょうか。

相手の立場に立っているつもりでも、 “こうに違いない”  “きっとこうなのだろう”  といった、決めつけともいえるような言動になっていることは、意外と多いものです。
そうなると、相手にとっては、自分の考えや気持ちを受け入れてもらえていないように感じたり、自分の言葉で伝えるのを諦めてしまうこともあるでしょう。


相手の立場に立って考えるようにと、家庭で言われたり、学校で学ぶ機会はあるものの、言葉として理解するのとは違って、実際にはとても難しいことなのです。

では、どうしたらよいのでしょうか。

私達は、日々の生活の中で、 “自分なりの” 経験を通して、 “自分なりの” 情報や材料を蓄えていきます。自分が考えたり判断する際には、この“自分なりの” 情報や材料を使っています。
相手の立場に立っているつもりだけれど、それが、 “自分なりの” であることに気づいていないと、前述のような事態を招いてしまう恐れがあります。

どれほど似たような状況を経験していたとしても、気質や性格、年代や育った時代の違いだけでなく、それまでの経験を、どのように感じたのか、どのように取り入れてきたのか、人によって様々です。
ですから、 “自分なりの” 情報や材料をもとに、 “自分なりに” 相手の立場に立って考えているのだということを、どこか頭の片隅に置いて意識していることが重要になると考えます。

相手の立場に立って考えたり行動しているとしても、それが “自分なりの” であることを忘れないでいる、そのことによって、
“もしかしたら、こうかもしれない”  “自分にはわかりえないこともあるだろう” といったような、
断定的ではない、曖昧さや空白が生まれます。

その曖昧さをわかっていく、空白を埋めていくというプロセスや、わかりたいという想い、わかろうとする姿勢は、相手の立場に立って考えることにつながるのではないかと考えます。
そのときに、想像する力も大事な役割を担うでしょう。
自分にはわからないものを想像する力です。

この想像する力は、小説を読んだり、映画を観たり、人の話を聴いたりしたときに、実際には体験していないけれど、自分の中に新たな情報や材料として蓄える際にも使われます。
そして、新たに蓄えられた情報や材料は、相手の立場に立って考えるときにも役立てることができます。

そうはいっても、自分なりの想像や解釈であることには違いありません。

このように考えると、どこまでいっても、 “自分なりの” という限定付きであることが考えられます。
相手のすべてをわかるということも、現実的ではないといえそうですね。

そして、相手と自分は違うのだという前提があるからこそ、
自分に “私なりの” 人生があるように、相手にも、 “その人なりに” 体験してきた人生があることに思いを馳せることができそうですし、
相手の存在そのものを尊重できるのではないでしょうか。